愛猫ぷうが20歳の健康診断で告げられた病名は慢性腎不全。
「20歳? そこまで生きたなら充分じゃないの。」
「あきらめなよ。」
「辛い治療させるのは可哀想だよ。」
友人や知人からよく言われた言葉です。
(そうかもしれない。でも¦私はあきらめない¦)
その日から、ぷうと私の闘病生活が始まりました。
食事療法、人に教えてもらった愛情マッサージ、点滴、造血剤の注射。なるべくストレスを感じない様、ごはん台の高さを変えたり、トイレ入口の段差対策をしたり、ひんやりベッド、あったかベッド、湯たんぽ入りベッドを配置しました。
私が家にいる間はずーっと一緒。腕枕で寝て、目覚まし時計の音で一緒に目覚め、朝ごはんを食べ膝の上に。お風呂、トイレもドアで待っています。仕事に行く時は、この世の終わりのような哀しい目で私を見送ってくれます。仕事から帰ると大きな声で 「お母~¦ 遅かった~¦ 待ちくたびれた¦」と言っているようでした。
(ぷう、大好きだよ。 ずっとずっと一緒にいようね。)
このままふたりの生活が続くと信じていましたが、その時は少しずつ近づいていました。
激しい夜鳴き。
(ぷう、どうしたらいい? お母にどうして欲しいの?)
度重なるトイレの失敗。 新しくトイレを増やしリビングにも設置しました。 きれい好きなぷうは、自分でも失敗が信じられないようでした。 オムツも検討しましたが、先生は、蒸れて可哀想だしやめてあげてとおっしゃいました。 確かに¦ トイレシーツやビニールシートで工夫し、なるべくお互いストレスを感じないよう工夫しました。
(ぷう、寒くない? 暑くない? お尻、気持ち悪くない?)
しゃべられればいいのになあ。私は間違っているのかな。 ぷうに無理をさせているのかな。 痩せて小さく軽くなったぷう。点滴するのも痛々しいよ。
それでも私の膝の上で柔らかいフードを舐めるぷう。
「生きたい。あたしこんなに食べられるよ¦ あたしまだまだこんなに元気なのだから。」
そう言っているようにも感じました。
でも…。
歩くことが出来なくなりました。トイレにも行けません。起き上がろうとするけれど起き上がれない…。
寝室から布団一式を移動し、リビングだけで過ごすことにしました。 座布団やクッションにはトイレシーツやバスタオルをかぶせ、その周りには、寝たままお水が飲めるように、ごはんが食べられるように、寝返りが打てるように。お尻が汚れても、きれいなところに転がれるように、どんどん改善しました。
少しずつ、できないことが増えていきました。
(ほんの少し前まで玄関に迎えにきてくれていたのに。自分で移動して日向ぼっこしたり、お母の膝や背中にのぼってきたり、優しいパンチで起こしてくれたりしたのに…。)
悲嘆にくれることもありました。
でも、大好きな鮭やササミを私の手から食べて、「もっとちょうだい¦」 とおかわりすることもありました。
その度に涙。 それと希望をもちました。
たくさんの奇跡をありがとう。
最後の最後まで生きる強さを見せてくれたね。
介護に専念するため仕事を辞めようと決めた翌日…。
私の腕の中で息を引き取りました。
旅立つ直前までお母の手からお水を飲んで。
これからどうしたらいいの…?
生きてくれることしか考えていなかった。
どうしよう…。
火葬ってどこでしてくれるの?
自分で運転するならぷうは…?
抱いていたいな。
お花は? お線香は?
涙が止まらない…。
しゃべると涙が出ちゃうししゃべれない¦
誰かー¦
大切な家族が旅立つというのに、ゆっくり哀しんでもいられない。
人の葬儀なら、おまかせできるのに…。
喪主でありながら、葬儀屋さん、当日お花を切る花屋さん、霊柩車の運転まで
自分でするのか…。
えっ? お棺はダンボール? え?
23年も私を愛してくれたぷうの最期なのに? いやだ。
泣きながらダンボールに和紙を貼り、お花畑にして送りました。
この時の経験から、いつか私が誰かのお別れのお手伝いができたらいいな、と考えるようになりました。
ご家族が、しっかりお別れができるよう、お手伝いをいたします。
大切な家族の旅立ち、「ありがとう」の気持ちを込めて。
またいつか逢えるその日まで、「行ってらっしゃい」とあたたかく送ってあげたい。
大切な家族だから最後まで愛を込めて…